昭和48年08月11日朝の御理解
御理解 第7節
「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」
信心はせぬでもおかげはやってある。そうゆう広大無辺のおかげ、広大無辺の御神虜というものが、分らせて頂くと言う事が、信心であります。今まで知らなかった、気がつかなかった、それを信心によって、神様の御恩恵を分らせて貰い、それを感じるようになる、それが信心、金光様の信心、まぁそれを手前のところでまあ申しますなら、御教えがありますように。
「痛いのが治ったので有り難いのではない、いつも達者なが有り難いのぞ」と言う事になって来る、広大無辺というたら、これ程無辺な、又は広大なおかげはありません。信心はせぬでもおかげはやってある、世界中の氏子にやってあるというふうにおっしゃってある。そのおかげというもの、そのおかげがわからして貰う事が、金光様の御信心である。そのためにはここに読まして頂きます。
天地金乃神様という方の御性格というか、又は天地が流行る事もなければ、終わりもないと言う事をまずは解らしこ貰うて、その天地乃親神様、いわゆる、流行る事もなからなければ終りもないというほどしの神様をわからせて頂くために、また信心はせんでもおかげはやってあると仰せられる、そのおかげを、おかげとわからして貰う、そのために「天地日月の心になる事が肝要だ」とと教えておられます。
これは私どもは、どうでもここのところを、分らせて貰うて真実これを自分の周囲に、いわゆる世界中に、そうゆう真実の事をです、本当の事を本当の事として、わからせて貰わなければならない責任をです、お道の信心をさして頂く者は、感じるくらいなければいけないと思う。昨日朝の食事に退らせて頂いたら、丁度テレビで東京でしょうあれはやっぱり、小学校の六年生くらいの男女三、四十名くらいスクジオにまぁ呼んで、そしていろんな事を、いろんなこと社会のこと。
それから小学六年生の心の中に映る社会、またはいろんな質問をしておりました、その質問に答えて、ボタンを押す、あれをやっておりますね、右と思う人は押して下さい、左と思う人はこうしてくれと言う様なふうの質問をしておりました。それにこうゆう質問をしておるのです「この世の中で一番大切なものは何と思うか」というものである。この世の中で一番大切なものは何か、お金が一番大切と思う人はボタンを押して下さい、どうぞ皆さんもその積りでボタンを押す積りで聞いて下さい。
この世の中で何が何というても一番大切なもの、僕達がいわゆる、君達が大きくなったら、必ず妻帯をするだろう、子供ができる、何人くらい欲しいかといった質問を、小学六年生にやってる。もうやっぱり何ですかね、東京の人達は、ませてるというのでしょうか、もう大人が答えるようなことを言うです。私は聞きよってから、かえってつら見苦しかごとあるの、と言うた事です。あまり、ぱしぱしと言うからね、子供らしさがないなぁと私は思いましたくらいにその…その中に今のことが出ていたのです。
この世の中で一番大切なものは何と思うか。その中でお金が一番大切と思うものはと言うと三分の一くらいはお金が一番大切と、さあめいめい答えて下さい。と言う中に健康が一番大切だと、人間健康でさえあればです、働く事が出来る働く事ができれば、お金は頂く事ができる。まあ健全な考え方だと思いますよね、それはまあ小学校の六年生くらいです、本当にその一番大切なものが分るとは思いません、けれどもなら大人がです、やはり大人が同じ様な答えをするものが沢山ありはせんだろうか。
先日社会主義者の書いている、本をちょっと開いたところを、読ませて頂きましたら。こうゆう事が書いてあった。その時感じました事を、ここに書きましたから読んで見ましょう。先日社会主義者の書いたものを、読みましたら人生の悪い事の元は、貧乏じゃと言うていますが、果たしてそうでしょうか。これは私の考えですね、人生の世の中でですね、悪い事の元というのは必ず貧乏だと言う事。貧乏だからお金が無いから、悪い事をするのだと極言します。
だから私は果たしてそうだろうか、私は心が貧乏じゃと心の貧乏じゃと思います、金も物もなくても、心が豊かであれば有り難い日暮しは、神様が約束して下さるのですが、神愛を知らぬ人達は哀れですね、と言う事です。皆がこの世で一番大切なものは、お金と言う人あり、いや健康だと、まだ他にもいろいろ大切なものがあるでしょうけれどもです、一番大切なものは、まあ小学校六年生ですから、心と言う者は一人もおりませんでした。けれども最近の、いうならば大人の方で、識者と言われる方達はです。
いうなら最高のギリギリの学問をした人達はです、これは心を大切にしなければいけないな、人間幸せの元は心だと言う事を気づいております。人間の智恵や力でです、月の世界にでも行けれるほどしの、いわば進歩をとげた科学、それでも人間は、幸せになれないという事がわかった。人間の智恵カでは人間幸せになれないと言う事が分った。だからこれは心だ、だからそれは心を豊かにすると言う事、心を大事にすると言う事、というだけで、人間幸せの条件というものが揃うと言う事はない。
私共金光様の信心をさして貰うものは、どうでもここんところを、天地日月の心になると言う事、そういう心になる精進をさして頂いて、和賀心を我心の中に生み出し、生神とはここに神が生れると便う事をおつじゃる生き神を心に生み出す、和賀心を生み出して行くという働き、この世で一番大切なものは、心を大切にする事でありしかもそれは和賀心と言う事である。しかもその和賀心には、おかげがあると仰せられるように、和賀心には人間の幸福の条件が、たろうてくるとゆう事なんだ。
そういう大変な事を、誰れもいうなら誰れもじゃない金光様の信心を頂く者以外は誰れも知らない、他の宗教の者も知らない。金光教の教祖が初めて仰った事なんです。難儀の元というのはああ言う事で、こう言う事だと、それは嘘ではありますまいけどです、それこそ私がいつも表現致しますように、玉葱の下の方に小さい根がいっぱいある。玉葱という事が難儀と仮定するならば、その難儀の元というのは、こんなに沢山ある、根がいっぱいついておるように、そしてそこに玉葱という悪をつくっておる。
難儀をつくっておるのである。だからあらゆる宗教はその一本一本の事を言っておる。ところがですどういう例えばお粗末、御無礼のために例えば難儀をしておりましても、私共が天地日月の心になる事肝要と仰せられる、天地日月の心とは、地の心とはと、追求して行って、天地の心を心としての日月の心を心としての、生き方にならせて頂こうという事を精進すると言う事によってです、和賃心が生まれて来る。和賀心が許されるのである。いわゆる許された心なのである。
その和賀心におかげがある。そういう難儀の元は、それこそ玉葱の小さい根のように沢山あるかもしれないけれども、それは和賀心をもって詫びれば許してやるという親心になり、その和賀心には人間の幸福の条件というものが、伴うてくるのである。そこでです私は、昨夜末永先生が前講をしております中に、最近は思い切っていろいろ修行してみる、けれども、どうも有り難くなれないとゆう事を言っておる。
ですから、それは修行の過程でありますからそうゆう事もあろうけれども、それはちょっと不思議だと、こうしきりと思うた。私共の場合は、その修行がならその修行しておる時には苦しかってもに苦しかっても、その修行が終わった後には、もう心の底からです、涙がこみ上げて来るほどしのものを感じた、それに有り難いものを感じないというのは、さあ今はちょうど泣く泣く辛抱しいしいにと言うところを通っておるのであろうか。けれどもね、私が今日皆さんに聞いて頂きたいことはです。
天地日月の心になる事肝要だとゆう、そうゆう心になる事を焦点としての信心、そのための修行、そこから和賀心が生まれて来ない筈がない。一生懸命修行しよるけれども、和賀心が生まれて来ない、喜びの心が湧いて来ないとするならばです、その修行の目的、その焦点が違うとゆう事です。いうなら天地日月の心になること、その精進こそが、真の信心だと、私は皆さんに聞いて頂いとるんですけれども、その真の信心を目指しての修行であるならばです、そこに喜びの湧かない筈がないという事です。
さまざまの修行もしてみる、だから今、末永先生どんが通っておりますところも実に尊いところ、そこを通らにゃわからん、そして翻然として、自分の焦点が間違っておる事に気づかせて頂いて、真の信心がわからせて貰うために、天地日月の心にならせて頂くということをです体得させて頂くことのために修行をしておるとゆう事であったら、それは絶対感動が湧かない筈がない、信心の喜びが湧かない筈がない、いや信心の喜びを神様が許されない筈がない。
皆さんが、こうやって日参りなさっておられる、朝参りをなさっておられるそのお参りの焦点がです、真の信心を目指さして頂いての修行であるならばです、必ず御理解の頂き方も違うでしょうが。頂いて帰るものが違うです。昨日朝の御理解、附焼刃の信心ではいかぬ、人から誘はれてのしょう事なしの信心は取れやすい、それを昨日はおかげ目的で、いわゆるおかげに誘はれての信心はもうしょう事なしの信心も同じだと。
田中さんの御届けじゃないけれども「先生、お話を頂けば頂くほど信心を分らせて頂く喜びは確かにありますけれど、やはり半分は願いのために参って来よります」とこう言う。それは厳密に言うたら、誰れだって同じなんだ私だって同じなんだ。頂かなければならないまた願わなければおれない、願いというものは、お互い沢山持っているのだから痛ければ痛い、かゆければかゆいで願わなければおられんのだけれども、なかなか言葉とゆうものは不自由なもので「真の信心」と説く時にはそういうふうに。
昨日の朝のような表現せねばできないと言うてお話をした事ですけれども。今日私が改めて思う事はです、なるほど願いはある、だからもうその願いのために修行しちゃならんということ、その願いはもうお取次ぎを頂いたら、もう親先生に預けなければいけないということ、金光大神に預けなければいけないとゆうこと。そしてその願いのための、修行では喜びは湧かんと言う事。成程願いがありますから、思い切った修行もできます。けれども喜びがわかなかったらどうでしょうか。
地団駄踏んで、神様にお願いしたという、願いが成就したところでです、その願いが本当の願いの成就じゃないです、それはあなただけの願いであって、神様の願いという高度なものではないでしょう。なら痛ければ痛い、かゆければかゆいで願うことは、いっぱいあるのだけれども、お取次を頂くとゆう事は、お願いしたらもう御結界にお任せする、お預けして帰ると言う事であって、修行は真の信心が、分らせて頂くことのために、修行せねばいけん。
田中さんに、昨日お話したことが、もっとすっきりしてきましたね。誰れでもそうですよと、半分半分ですよと、それが信心の方が強い人もおれば、願いが強い人もおる。その難儀の間題のためにお参りしとるというそのことが大休バランスが取れてくるような感じがしたけれども、それだけでなくてその願いというのは、お取次を頂いたら、もう任せなければいけない。
そして修行は真の信心が分らせて頂く事の為に、さしてもらう和賀心を頂かして頂くことの喜びの心を頂く事の為に修行をしなければ、天地日月の心にならせて頂くことが容易にできる事の為に、修行させてもらわにゃ、もうこんなら絶対喜びが湧くと思う。神の親の心が分りたい、分りたい、神様の心が分りたい、分りたい、そういう純粋な私は願いのために、修行をお互いがさせて頂くならばね、喜びが湧かない筈がない。
その喜びが和賀心、しかもその心にはです、人間の幸福の条件のすべてが寄り添うてくるように頂けるんだと言う事をです私どもが頂いて、この世の中で一番大切なものは、信心、真の信心であり、しかもその真の信心というのを、もう金光教一本にしぼるベきであり、金光教の信心を一本にしぼったら、和賀心にしぼるのことにあるであり、その和賀心をいよいよ和賀心たらしめるために、天地日月の心になることと言った様な修行に取り組むといったようなことである。
与えて与えて止まない天の心、受けて受けて受けぬいてゆく地の心、実意丁寧この上もない日月の心、そういう心を私どもの心の上に頂いて行かうという精進、そのために修行せんならん、これを貰わんならんけん修行せんならんというのはね、なるほど喜びが湧かないはずだと言う事がわかる。だから、そういう願いを持ってはならないかというと実際は、田中さんじゃないけれども、いっぱい願いはあるのだと言う事。それでは私の信心は違う事では決してない。
それが生身を持っておる人間なんだ。けれどもその願いは日々お取次を頂いて、もう御結界に任せる、金光大神に任せる、親先生にお任せするという生き方にならせて頂いて、一生懸命の修行は、真の信心が分らせて頂くことのために一生懸命修行するんだという、皆さんこの切替えをですね本気でなさらなければ、喜びは生まれて来んです。いいですか信心の喜びが湧かなければ、いわゆる、和賀心がわからなければ、本当のおかげというものは寄り添うて来ないです。だから大事な事でしょう。
信心はせんでも、おかげはやってあるとおおせられる、そういう広大無辺のおかげを、私共そういう天地日月の心になること肝要だと、いうほどしの信心に取り組まして頂いて、はじめて感知するというかね、いわゆる、自分の心でキャッチできれる、あれもおかげ、これもおかげ、もうとにかく、御礼申し上げることばっかりの世界が、そこにあるわけです。信心せんでも、おかげはやってあるというほどしの、広大無辺の、これほどしのおかげはない。
あまりにもの偉大な大きなおかげであるから気がつかないだけのこと、それを気つかせて頂くようになったら、もう日々が有り難い。もう見るもの聞くもの、有り難いと御礼を申し上げねばおられない、今日はとりわけ、信心はせぬでもおかげはやってあるとゆうおかげをおかげとわからせて頂くことのために、金光様の御信心はあるというふうに今日は聞いて頂いた。
そのためには、この世でそれこそ一番大切なものは、それは子供では、小学校六年生の子供ではなくとも、大の男がです、この世で一番大切なものは金だ、物だ、いや健康だと、ただ健康だけで、人間が幸せになる事ではありません。人間がいよいよ、人間の幸福の条件というものは、金光大神の御取次に依って、天地日月の心になる事肝要なりと、仰せられるほどしの信心を、身につけさせて頂いて、和賀心におかげはあると、言う事を体験させて貰う。
それをいよいよ、広い深いものにして行くと言う事を、これが何というても、一番大切なものだと。社会主義者の人達がです、言っておるこの世の財産を、皆平等にする、持っとるものも、持たないものも、あると言う事ではない。この世の悪というものは、難儀と言うものは、金がないために貧乏しとるために、この世に悪があるんだと、言った様な極端な間違った考え方をです、一掃していかねばいけません。
それは金光大神の信心を、頂いとる者の責任です。和賀心時代を創ると言う事がいよいよ五つの願いというものが本気で願わなければおられない、五つの願いはそのまゝが天地金乃神様の氏子に対する願いなのですから。私共がこの事を繰り返し、繰り返し、願わせて頂くところに、神様の感動を受ける事ができる。この五つの願いを本気でしてごらんなさい、喜びが湧いて来るです。
それはね、もう神様がね、私の願いもそこなんだよと言われるからです。健康でありますことも、家庭が円満でありますと言う事も、子孫繁盛家繁盛であると言う事も御用が御用になる、本当に真実の御用ができますようにとゆう事も、神願成就の願いを、神の願いを、受けて立たしてもらう、和賀心時代を創ると言った様な事の意味においての願いというものはです、いかに神様の心を揺り動かすかとゆう事が分ります。
五つの願いというものが生々として参ります、しかもこの世で一番大切なもの、それを私どもは今頂いておるのです。だからそれもです、世界中の人間氏子にです一番大切なものはこれなんだぞと言う事をです、分らせるだけでも、ひとつ分らせる責任をね、私どもが感じて、いよいよ和賀心時代を創る運動の展開を願って行かなければならんと思うのでございます。
どうぞ。